21

INTERVIEW

60年後のあなたへ

インタビューアー / (株)南畑ぼうぶら会議 衛藤志穂

内野豊和さん(71) / 内野学さん(71) / 内野徹さん(75)

生まれも育ちも生粋の南畑っ子のお三方。今でも元気に地域のためにいろいろと活動されていて、私にとっては頼れる南畑のお父さんたち。ちなみに全員内野姓ですが兄弟ではありません。 成竹区や寺倉区は内野さん、不入道区は添田さん、市ノ瀬区は真鍋さんの様に南畑には各行政区ごとに同じ姓の方ってとても多いんです。 なので南畑では「豊和さん」「学さん」「徹さん」というように、下の名前で呼び合っています。

今回みなさんにお伝えするのは、昔、この地域がまだ南畑村と呼ばれていた60年ほど前のお話。

最近はスマホ一つで大抵のことは知り得ることができる時代。でも、昔の南畑のことは地域にいるおじいちゃんおばあちゃんたちの記憶の中にたくさんの思い出が詰まっていて、南畑で生まれ育った私でも知らないことがたくさん。SUMITSUKEで地域の方々にちょっとした昔話なんかを聞いていると、自分たちの故郷のこと、それを今度は私が子どもたちにもしっかり伝えていきたいなぁって思うようになりました。

そんな想いもあって、今回、昔話を聞かせていただいたのは、みなさん生まれも育ちも南畑、南畑をこよなく愛する生粋の南畑っ子の大先輩たちです。

(冒頭の写真左から)
内野 豊和さん71歳(現成竹区長、南畑みらい協議会会長)

内野 学さん71歳(現寺倉区長、南畑みらい協議会副会長、実は私の父でもあります)
内野 徹さん75歳(南畑の地域商社(株)南畑ぼうぶら会議取締役)

幼少期のことを話すみなさんの顔はなんだかとても楽しそう。その目の輝きは、長い人生の中で大切な記憶が詰まっていることを物語っていました。

(当日は白黒の懐かしい思い出写真を持ってきていただきました)

「みなさんが小学生だった60年ほど前は、まだここが南畑村だった頃ですよね。噂では不入道地区に劇場があったり、南畑にお店もたくさんあったと聞きました。みなさんが子どもの頃の南畑村はどんな街並みだったんですか?」

<徹さん>南畑はすごく栄えていて活気があったんだよ。劇場だけじゃない、鮮魚店、呉服店、食堂、床屋、雑貨屋、文具店、農協の購買所なんかが道の両側にズラッと並んどってね。南畑村は岩戸村、安徳村(※その後3村が合併して那珂川町(現:那珂川市)ができた。)の中で一番の大都会やったんやから。
劇場は2階席まであって、今で言う映画館みたいな感じかな。小学校の体育館より大きくて立派で、
ここで青年団や子どもたちが演劇をしてたんやけど、時にはプロの劇団が来ることもあった。
なんせ南畑村全体の敬老会が出来るくらい広かったからね。

(劇場で行われた南畑村全体の敬老会。子どもたちも大勢集まっていますね)

<徹さん>それに今の郵便局の向かいに百貨店があったとよ。百貨店て言うくらいやけん、肉、魚、野菜、食料品はもちろん、洋服や靴、薬も売っとった。とにかく生活に必要なものはここになんでも売っとった。

<衛藤>えーーっ、百貨店ですか?!

<豊和さん>そうそう。百貨店の一角には角打ち(※酒屋の一角で立ち飲みするスペース)もあって、ここでみんな一杯飲んで帰るのが好きでね。すぐ近くにも酒屋さんがあって、そっちでも一杯やれたんですよ。親父が帰って来んな〜と思ったら大抵どっちかで飲んでて、飲みすぎて迎えに行くこともしょっちゅうあったんですよ(笑)

<徹さん>そうやった、そうやった(笑)

<学さん>百貨店の正面には旅館もあったよね。2階にお縁があって、そこから外が眺めれるようになっとってなかなか風情がある旅館やったよね。あの頃はまだ車がない時代やったけん、脊振(※「せふり」南畑と佐賀県の県境辺り)を越える時はちょうど南畑が中間地点。この旅館で一泊して旅の疲れを癒していったんやろうね。

<徹さん>いい旅館やったよね。旅館のすぐ隣には藤木食堂があった。藤木食堂のかしわご飯、あれは本当に絶品やった。あのかしわご飯を超えるところはそうそうないよ(笑)

<衛藤>百貨店に酒屋、食堂に旅館まで!想像以上の賑わいで驚きました。まさに町の中心部みたいな雰囲気ですよね。私は今の南畑しか知らないのでほんと不思議な感じさえします。その景色、見てみたかったなぁ。

(学さん(父)の南畑小学校の入学式。多分、2列目の右から5人目かな〜)

「持ってきてくださった小学校の入学式の写真を見てビックリしたんですけど新入生が多いですね!南畑小学校全体ではどれくらいの児童数がいたんですか?」

<徹さん>当時の南畑小学校は全校児童で350人くらいやないかな。1クラス30人くらいで各学年2クラスずつ。
あの頃はまだ五ケ山小学校も別にあったから、合わせると南畑地区だけで400人近くは児童がおったかもしれん。

(南畑村時代の南畑中学校校舎。右側中央に見えるのが正面玄関)

「今の南畑小学校の児童数が90人ほどなので4倍以上ですね。すごい!当時の子どもたちは毎日どんなことをして遊んでいたんですか?」

<徹さん>昔はね、勉強より遊びが一番!
学校から帰ってきたら、みんな一目散に山に駆け上がっていく。木に鳥もちを仕掛けたり、うっつめ(※鳥を取るときの仕掛けの名前)を仕掛けたりね。時には何十羽も罠にかかることもあって子どもたちはみんな鳥を取る名人やったとよ。
かかった鳥は晩御飯のおかず。これも大昔は大切な食料だったんだよ。
他には山で拾った木でチャンバラするのも日課やったね。そう言えば、俺はいつもやられ役やったよなぁ、、、(笑)

(3人の中でも1番先輩の徹さん、昔話が楽しそう)

<学さん>夏は毎日毎日川遊び。今と違って深いところがいっぱいあったけんね。
今の那珂川は川辺に草や木が生い茂っとるやろ?でも昔は1本もなかったと。やけん、どこにでもどんどん飛び込めた。砂は真っ白でキラキラしとってね。水が綺麗やったから大きな天然の鮎がそこら中に泳いどったし、この鮎を捕って串に刺して塩焼きにするのが美味いったい。昔は今みたいに冷蔵庫はなかったけん、どこの家でもホテ(※藁を棒状に巻き固めたもの)にさして鮎を保存しとったとよ。

(筑紫耶馬溪。白黒写真でもよく見ると水の綺麗さが分かります)

<豊和さん>鮎に限らず川に入れば、つけ針して鰻をとったり、ナマズをとったりね。手掴みはもちろんやけど、テボ、のぼり受け、くだり受け。いろんな手を使って魚を獲るのにみんな夢中やったよね。
(※テボ‥真ん中からお尻にかけて膨らんでいる竹製の筒。 筒の中にエサを入れ蓋をし水中に沈めて魚を獲る。)

<徹さん>どこで魚が取れるかを知っとるけん、そりゃ〜もう取り合いよ。みんなライバル(笑)
『あいつが取りに行く前に急いで行くぞ!』ってね。
今ではほとんど見かけんくなったけど、山みみずを餌にするとよく釣れるったい。でもこれが青くて大きくて気持ち悪い(笑)

「うっつめ、ホテ、テボ、山みみず、、、私自身も南畑で育ったんですが、知らないワードばかり(笑)。その道具はどこかで買っていたんですか?」

<豊和さん>まさかまさか。大抵の遊び道具は自分たちで作るんです。道具なんて買ってもらえないから、子どもたちは当然に自分で作るものと思ってましたよね。だから、学校に行く時も、遊びに行く時も、どこに行く時もポケットには必ず「肥後の守」っていう小刀を入れていて。小刀で竹の水中鉄砲を作るなんてのは、朝飯前。誰に教えてもらうわけでもなくて、近所の先輩がやってるのをじっと見ながら、こうじゃなかったとか、もっとこうした方が使いやすいとか、作りながら自然と感覚を掴んでいくんです。教科書や本で教わらなくても、昔の子どもたちは自分で知恵を絞ってなんでも作ってたんですよ。

(今では地域の子どもたちのために竹を使った遊具も手作りしている豊和さん。その心は子ども時代に培われたのかもしれません)

<徹さん>そうそう良いことも悪いことも全部先輩たちから教わってね。ここでは言えない様な悪さも目一杯してきたよな(笑)川で魚を捕るのに学と一緒に近くの電線から電気を引っ張ってきて電気ショックさせようとしたんやけど、帰ってきたら寺倉地区が停電しとって、あれは流石に焦った(笑)今じゃ絶対出来んことやけどね。
たくましかったと思うよ、あの頃の子どもたちは。今この地球で何か起こっても最終的に生き残れるのは俺たち世代の人間ばい(笑)

ここからは書けないようなわんぱく話が次々に止まらない・・・ので割愛します(笑)

<衛藤>みなさんが想像力と創造力を働かせて何でも器用に作られるのは、幼い頃の経験があってからこそなんですね。
今は『水鉄砲の作り方』ってインターネットで検索すれば、すぐに作り方が分かる時代。もちろん便利ではあるけれど「自分で考える力」がどんどん衰えてきている気がします。

(学さん。今まで聞いたことなかった父のわんぱく話に驚愕です(笑))

「3人が目を輝かせながら何十年も前の昔話を楽しそうにしているのを見ていると、やっぱり子どもの頃に経験したことって一生の財産だなって改めて実感しました。だから私も子どもたちに南畑だからこそ出来る経験をたくさんさせてあげたいと思います。みなさん数え切れないくらい子どもの頃の思い出がありそうですけど、その中でも特に印象に残っていることはありますか?」

<徹さん>楽しみだった思い出と言えば、たまに来るアイスキャンデー屋さん。五円おじさんと七円おじさんっていう2人のおじさんがおってね。このアイスキャンデーが固いったい、今のアイスと違って(笑)でもそれが美味かったんよ。

<豊和さん>そうそう、めちゃくちゃ固かったですよね。川で泳ぎよったら、遠くから「カランカラン〜カランカラン〜♪」って音が聞こえてきてね。もうみんな慌てて川から出て買いに行ってましたよ。あの時代はオヤツって言ったら、蒸した芋かせいぜい饅頭くらいしかなかったから、アイスキャンデーは特別な存在で嬉しかったのをよく覚えてますね。

<学さん>あと、ぽんぽん菓子屋さんも来よったね。米と砂糖とお金を持って行ったらポンポン菓子にしてくれる。ポーンって大きな音を立てて作るんやけど、その音がみんな好きやった。小さな米粒が袋いっぱいに膨らんでね。子どもたちはみんな大喜びしとった。

(お米を持って行ったらポンポン菓子になるなんて!)

<徹さん>ポンポン菓子、うまかったね〜。
おやつ以外の思い出といえば、出張映画やね。昔は個人宅の庭先に映画が来よったとよ。白い大きな幕をスクリーン代わりにして、そこに投射機で時代劇を映し出して鑑賞するんやけど、悪者を倒したシーンなんかは大人も子どももみんな手を叩いて大喜びしてね。あれは面白かったなぁ。

<豊和さん>TVもゲームももちろんない時代だし、娯楽も少なかったから『映画が来る!映画が来る!』って子どもたちはすごくはしゃいでましたね。

<徹さん>そうそう、あと一つ忘れらん思い出があるったい。昔はアメリカ隊員が南畑でよく野営をしよって、そこで初めてコーラを飲ませてもらったったい。
なんやこの味〜って、みんなで顔をしかめたのを覚えとる(笑)。ジュースなんて普段は飲めんから、あの衝撃的な味にびっくりしたよね。

「今のように物が溢れていないからこそ、何に対しても好奇心があったり、そのありがたさみたいなものを感じられていたり。なんだかその環境がとても羨ましく思います。でも物が無い時代だからこそ苦労した経験もありそうですね?」

<学さん>もちろん子どもと言えども遊んでばかりじゃおられんけんね。やらないかん仕事は山のようにあった。米を作るにしても野菜を作るにしても今みたいに機械はないから何をするにも全部手作業。親も朝から晩まで働いとったから、子どもたちも家の手伝いは当たり前にやりよったね。

<徹さん>例えば、昔は大木を馬に引かせながら山から下ろして来るんやけど、その木を集めてくるのは子どもの仕事。
下ろしてきた材木は七輪で焼いて炭にする。その炭で料理したり、釜でご飯を炊いたりね。炭は生活に必要不可欠なものやったけんね。子どももしっかり働きよったとよ。

(当時は長靴に入ってくるほど雪が積もるのも毎年。茅葺き屋根の家もたくさんあったそうです)

<学さん>冬になれば、その炭をこたつに入れて暖をとる。それに落ちて火傷する子どもがおったり、煙を吸いすぎて一酸化炭素中毒になりかける子どもがおったり。完全に炭を燃焼させておかんと煙だらけでそりゃもう大変なんよ。でもそうやって物の扱い方や生きていく術のようなものを子どもながらに学んでいっていたよね。
あの頃はどの家庭でも炭焼きしよったけん、見渡したら南畑のあちこちで煙がモクモク上がっとったなぁ。

<豊和さん>昔は畑の肥料にするために肥溜めがいろんなところにあって、そこまで排泄物を運ぶのも子どもたちの仕事の一つ。棒を担いで両側にバケツをぶら下げて転ばんように運んでいくんだけど、これが結構大変でね。これも生活する上で大事な仕事だったんですよ。

<学さん>肥溜めが道のあちこちにあるもんやから、そこに落ちる子がおってさ()
後ろを振り返ったら、「あら?アイツがおらんぜ!落ちとるぜ!」なんてこともよくあったよね(笑)

(はっけよーい、のこった!)

<徹さん>何をするにしても今みたいに便利な世の中じゃなかったけん生活はもちろん大変やったよね。
でもね、心は今よりうんと豊かやった。醤油がなければ、ちょっとお隣さんから借りてこようとか、逆に何かもらいものがあったらおすそわけしたり。それって特別に意識してするわけでもなくて、ご近所で助け合うことは当然のことやったと。だから、貧しくても人の関わりであったり生きていくことそのものが毎日楽しかったし自由やった。何よりあの時代は夢があったよね。

<衛藤>家族みんなで仕事を分担して、集落全体で助け合う。昔はその暮らしの形がごくごく当たり前のことだったんですね。さすがに昔の暮らしに比べたら薄れてきたとはいえ、その根底は今の南畑にもしっかり受け継がれている気がします。例えば玄関先に採れたての野菜が並べてあったり、道端を歩いていたら持ち切れないほどの野菜を持たせてくれたり。地域の年配の方々は、若い世代の家族のことを気にかけてくださる方が多いと感じるし、この優しさは昔から受け継がれてきたものだったんですね。

(今日は本当に良い話を聞かせてもらいました)

「70年以上ここで暮らされているみなさんですが、南畑を出てみたいと考えたことはありますか?」

<学さん>ずっと出てみたいと思っとった。進学にしても就職にしても。福岡から出て挑戦してみたかった。でも長男やったけんね、跡を継がないかん。代々受け継がれてきた自分の家を守っていくことはある意味使命だと思って育ってきたけんね、実際にここを離れるという選択は出来んかった。この時代の長男は結構たくさんの人がそうやったんじゃないかと思うよ。

<徹さん>そうやね。確かに長男じゃなかったらここを出とったと思う。いつか出てみたいと思っとったけど結局一歩も出らんかった(笑)

<豊和さん>私は大学4年間だけ福岡を離れ、卒業と同時に南畑に戻って来ました。
徹さんや学さんと同じく、自分は長男だから、という意識が強かったように思いますね。

(60年ほど前の寺倉地区の風景)

「みなさんのような方がずっと守ってきてくださったからこそ、今の南畑があるんですね。
実は私自身もここから出たくて出たくて仕方なかったんです。結婚と同時に南畑を離れ都会で暮らしていましたが、結局は家族と一緒にここに戻ってきました。やっぱり南畑が忘れられなかったんです。
次は私たち若い世代がこの南畑を受け継いでいく番ですが、みなさんが次の代に願うことはなんですか?」

<徹さん>正直言うと、あまり変わらんでほしいっていうのが本音。福岡市内からこれだけ近くて、これだけの大自然が残っとるところはもうそんなにないもんね。空気も水も綺麗やけん、南畑の米も野菜も格別に美味い。だけん、この環境を壊して欲しくないね。でも、そういうわけにはいかんのもわかっとるんやけどね。

<学さん>現実的に南畑は年々人口が減っとるけんね。今の子どもたちのためにもこの町を守っていってあげんといかん。子どもたちの故郷をなくすわけにはいかんもんね。

<豊和さん>ここ数年で地元の方や移住して来られた方が積極的にまちづくりに関わってくれるようになりました。最近は地元の高校生までまちづくりに興味を持って参加してくれるようになって。これはこの先の未来に繋がっていくでしょうし、新しい可能性をすごく感じますね。

<学さん>今の時代やけんこそ出来ることもたくさんあるけんね。俺たちはもう新しいことを思いつくのは難しい。だけん若い人たちのアイデアが活かせる様に、支える側として関わっていくつもり。
とは言え、若いもんにはまだまだ負けんけどね(笑)

(当時のリレー選手の集合写真。スマホも使いこなしますよ!)

子どもたちが見ている世界は、60年前と今ではガラリと変わってしまいました。
YouTube、Twitter、TikTok。スマホ一つで大抵のことは知り得ることができる。

でも、子どもたちに伝えたい本当の面白さは
画面越しでは伝えられないものもたくさん。今日も記事には全部は書ききれないくらいたくさんのお話を伺うことができました。

同じように、子どもたちがおじいちゃんおばあちゃんになったとき、50年後、60年後のあなたに思い出してほしいなぁ。
南畑で過ごした子どもの頃は楽しかった、幸せだったなぁって。

今回のインタビューを通してあらためて感じたこと。

近年、時代の変化のスピードは年々勢いを増すばかりで、私自身もいつの間にか便利さばかり追い求める様になっていたけど、不便も悪くないなって・・・。

本当の豊かさとはなんなのか。
子どもたちに受け継いでいきたいことはなんなのか。

今日の先輩たちみたいに、60年経っても忘れない思い出を今の子どもたちにも作ってあげたい。
それが南畑を守ることに繋がっていくんだと思う。

この機会に一度立ち止まって、なんとなく過ごしている毎日を見つめ直してみよう。

ずっと前から本当は気になっていたのに、忙しさにかまけて意外とこんな話を
じっくり聞く機会が作れていなかったので、本当に良いお話が聞けました。

そして、しっかりこの話を子どもたちにも伝えていきたいなって思います。

分からなければ聞けばいいですしね。
だってこの南畑には、こんなにも素晴らしい先輩方がたくさんいるんだから。