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INTERVIEW

95年間の記憶が紡ぐ、南畑の景色

インタビューアー / (株)南畑ぼうぶら会議 衛藤志穂

[南畑生まれ、南畑育ち] 内野 照子さん

昭和6年生まれ、現在95歳。14歳で国民学校高等科を卒業後、地域の農協に37年間勤務。長年にわたりお茶やお花の先生も務められ、南畑の歴史とともに歩んでこられました。

「麦茶よ。暑かったでしょう。」

玄関を上がるなり、冷たい麦茶が注がれたコップ。続いて、おせんべいも。私が生まれたときからのご近所さんで、今も昔もお会いするといつも穏やかにあたたかく迎え入れてくれる照子さん。

南畑で生まれ、南畑で育ち、南畑で働き、南畑でずっと暮らし続けてこられた照子さんは今年で95歳。「最近は耳が遠くなっちゃって聞こえづらいの」と少し体を寄せながらお話しくださいましたが、それでも記憶は驚くほど鮮明で、昔の情景はもちろん、免許を取られた年月日まで、すらすらと言葉にされるんです。今日は、そんな照子さんにたくさんの南畑の昔話をお伺いしてきました。


(冷たい麦茶と塩味のきいたおせんべいが暑さを吹き飛ばしてくれました。)

― 今日はありがとうございます。私も小さなときからずっと知っている照子さんですが、こうやって南畑のことをいろいろ聞くのは初めてですね!照子さんはずっと南畑で暮らしていると思いますが、生まれも南畑なんですか?

そうそう、南畑の農協の前に実家があったの。そこで生まれて、寺倉(てらぐら ※南畑の行政区のひとつ)のこの家に嫁いできたから、もう95年間ずっと南畑ね。学校を卒業してからも南畑の農協に勤めて、朝なんかすぐ着くから出勤も8時になって朝ご飯も食べずに走ってパッと行きよったよ(笑)。そしたら母が、あとからおにぎりをつくって持ってきてくれてたね。


(現在のJA南畑支店)

― (笑)ということは南畑歴95年ですね。すごい!いろんな時代の南畑を見てこられたと思いますが、昔と今とではどんな風に変わったなって思われますか?

昔の南畑はね、本当に何でもあってすごく栄えていたのよ。食堂も、散髪屋も、パチンコ屋も、百貨店みたいな大きなよろず屋さんも。役場だって、今の南地区公民館(※南畑内にある公民館)のところにあったの。

―  今の町並みからは想像もつかないくらい賑やかだったんですね。

そうなのよ。何でも揃っていたから、今みたいにわざわざ町まで出なくても暮らしが成り立っていたの。勤務中のお昼休みに近くのパーマ屋さんに行っていたし(笑)。私は仕事も南畑でしていたから、子育てをしているときは子どもの授業参観にも「ごめんね、ちょっと行ってくるね」って抜け出したりしてね。お互い様で通じ合える、大らかで自由な空気があった時代でもあったからね。

あと、一番の楽しみは芝居小屋だったね。本物の劇団が来ることもあれば、南畑の人たちが歌ったりお芝居をしたり、近所の子が子役で出たりして。それがタダで見られるんだから、開催される日は南畑中の人が集まって大賑わいだったのよ。テレビなんてない時代だから、それが一番の娯楽。その後、(当時の)皇太子さまと美智子さまの結婚式の頃にようやくテレビが出てきたけれど、うちにはないから近所の電気屋さんやお店までみんなで見に行ったりしてね。人が集まる場所やきっかけが南畑の中にたくさんあったのよ。

だから、町並みが変わっていくのと一緒に、いろんな道筋が変わっていきましたね。


(どこでお会いしてもいつも優しい笑顔で迎えてくれる照子さん。)

― そうですよね、今では想像ができないです。照子さんの子ども時代のお話も少しお伺いしたいんですが、ちょうど戦時中だった時期もありますよね?

そうね。私は昭和20年の3月に南畑国民学校の高等科を卒業したんだけど、ちょうどその頃は戦時中で日本が空襲を受けていたりして、お勉強どころではなかったの。空襲警報が鳴ったら道端の溝の中に身を潜めたり、農協の大きなコンクリート金庫に隠れたりもしてた。あの頃は南畑にも兵隊さんがたくさんいて、お昼休みになると成竹山から農協のあたりまで降りてきてたね。

あと、燃料が足りないからって、藤田医院(※南畑地域内にあった医院)のあたりに大きな釜を据えて、みんなで松の根を掘って小さく裂いて、ドロドロした黒い油を取るのを手伝ってたね。松根油(しょうこんゆ)って言って、燃料として使われていたの。だから、その頃は子どもたちもお手伝いが忙しくて、暇もあまりなかったのよ。

(当時は14歳で学校を卒業後、上級学校へ進む余裕がある家庭も限られていて、多くの子どもたちはすぐに働き始める時代。進学しても、戦争が激しくなるにつれて学徒動員に駆り出され、勉学どころではない激動の時代だったそうです。)


(本棚には、昭和の古い新聞記事もスクラップされていました。)

ちょうどその頃、学校を卒業して農協に就職したけれど、実は従軍看護婦の試験も受けていたの。赤十字の看護婦さんの黒い制服姿に憧れて、とても難関だったんだけど合格できたのよ。でも、母に「死にに行くようなもんたい」と猛反対されて、それで農協に入ったの。本当は看護師さんになりたかったんだけど…。

それと、やっぱり8月15日の終戦の日のことは今でもよく覚えてますね。その日は、『大事な放送があるから』って、ちょうど農協の窓口でみんなでラジオを囲んで聞いたの。それが玉音放送。何のお話があるかは誰も知らなかったし、兵隊さんたちがみんな泣き崩れていた光景は、今でも忘れられないわね。

― そうだったんですね。そこから37年間、南畑の農協でお仕事をされたとのことですが、照子さんはそろばんの名手だったとお聞きしました。

そうそう、とっても得意だったのよ。昔はそろばん一本でなんでもこなしていた時代だからね。筑紫郡や福岡県の大会、大博劇場での大会でも何度も優勝してたのよ。山仕事に行くときも、お弁当と一緒にそろばんを持って行って、材木に腰掛けて『読み上げ算』の練習をしてね、15歳で農協に入ってから37年間、こうやって南畑の人たちの農業や暮らしを支えてきたの。今でも会計や財政についてはしっかり頭に入ってるのよ(笑)。


(お庭は丁寧に手入れがされています。)

― その後、今のご自宅へお嫁に来られたとのことですが、まだ便利な家電製品なんかもない時代ですよね。当時の暮らしは今とは比べものにならないほど大変だったのでは?

洗濯機も冷蔵庫もない時代だからねぇ。それはもう、すべてを手作業でやらなきゃならない。ガスは無いから朝は4時に起きて七輪で火をおこして、お湯を沸かすことから始まるの。当時は毎日お弁当を6個も作っていたのよ。お風呂も五右衛門風呂だから、底板を敷いて、もちろんホースなんてないから、井戸からバケツで水を汲んできてね。今みたいにボタン一つで何でもできる時代じゃなかったからね。

それから5時半になったら、この辺の同じ年代の女性が4、5人、川に洗濯に行くの。ちえこさん、てるさん、えいこちゃんとかいたわね。子どもがいる家庭だったら、おむつも全部そこで手洗い。うちは浴衣で布おむつを作っていたから、汚れたおむつを全部抱えて持って行って、少しでも遅れると良い場所が取られてしまうから早い者勝ちの取り合いよ(笑)。一番か二番に行って、いい場所を確保して、洗濯物をたたいて洗って、干して。冬は手袋の一つもないから、手が冷たくてかじかんでしまって。大変だったけど、それでも毎朝、その洗い場でみんなに会ってお喋りするのが楽しみでもあったのよ。助け合って苦労を笑い飛ばしていたのね。


(窓から見える緑が心を和ませてくれます。)

― お互いに声を掛け合いながら乗り越えていたのですね。照子さんが始められたという寺倉地区の毎月の「お金寄せ」(※毎月23日に公民館へ区費や神社費などを現金で持ち寄り納める寺倉地区の風習)も、そうした地域の支え合いから生まれたのですか?

(寺倉区民の15分の集い。)

そうなの。「お金寄せ」は、私が提案して始めた仕組みでね。寺倉では70年以上経った今でも毎月の恒例行事として続いているのよ。南畑でも寺倉だけしかしてないの。たった15分程度のことなんだけど、お互いに顔を合わせて「最近どうね?」「元気にしとる?」って声を掛け合うきっかけになるからね。ずっと続いてほしいと思っているのよ。

あと、昔は電気代の口座引き落としなんてないでしょう? だから地域の人が一軒一軒集金に回って、それをまとめて支払いに行っていたの。私がその役を担ってたこともあって、近所中から集金した大金を持って、二日市にある九州電力まで電車で運んでいったりもしてたわよ。あれは本当に怖かったねぇ。

― 「お金寄せ」は70年以上も前から続いてるんですね! 今の時代だからこそ、そうした顔の見えるつながりがとても貴重に思えます。本棚には、いけばなの本がたくさんありますが、お仕事や家事で大変お忙しい中、洋裁やお花も嗜まれていたとか。


(タンスの中にはたくさんの茶器が大事に並べてありました。)

洋裁は仕事終わりに博多の学校まで通って覚えてね。生地を買ってきては夜中にミシンを踏んで、次の日には自分が縫ったスカートを履いて出勤したりして(笑)。

お花は農協を退職してから本格的に始めたんだけど、先生のもとで何年もお稽古をして、岩田屋(※福岡市の天神にある百貨店)の玄関にお花を活けさせてもらったこともあるのよ。それから随分長い間、いろんな地区の公民館でお母さんたちに教えたりして。南畑はね、一歩外に出れば山も川もあって、野の花や木の枝がいくらでもあるでしょう。捨てられていた松の枝を拾ってきて形を整えたり、うちの裏の柿の木を切って抱えて持っていったり。自然の恵みがすぐそこにあるから、お金をかけなくても素晴らしいお花が活けられるのよ。


(照子さんが活けたお花の写真集。)

― すぐ近くに美しい自然がある南畑だからこそできる、贅沢な楽しみ方ですね。照子さんは南畑で好きな場所はありますか?

南畑の自然といえば、私はやっぱり共栄橋のあたりの川の風景が一番好き。昔は夏になると、子どもたちが毎日のように川で泳いでいてね。私も子どもの頃は川の大きな木から飛び込んで遊んでいたし、親になってからは子どもたちが泳ぎやすいように鎌で川岸の草を刈って道を作ってあげたりしたものよ。山と川と草花……南畑の自然には、ずっと心を救われてきましたね。

― 私も小さいときは共栄橋のところで泳ぐのが好きでした!昔のお話を聞いていると照子さんが本当にアクティブなのが伝わってくるんですが、今でも何か取り組まれていることはあるんですか?

今は、俳句をちょっと詠んで書き留めてみたり、新聞を読んで『これは良いな』と思った記事や言葉を切り抜いてノートに貼ったりするのが好きでね。誰に見せるわけでもなく自分のために書いておくだけなんだけど、もう何冊にもなって。書くのをやめてしまったら手も頭も止まってしまう気がしてね。これが今の私の日課で、ささやかな楽しみでもあるのよ。

あと、土日になると孫やひ孫が遊びに来てくれるから料理を作ってあげるのも楽しみ。「おばあちゃんのかしわご飯は日本一!」って言っておいしそうに食べてくれるのが、もう本当に一番の幸せね。

去年は心臓の手術もしたけれど、私はやっぱり病院や施設ではなくてこの住み慣れた我が家で、できるだけ長く、庭の草を一本でも自分で抜きながら暮らしていきたいの。それが私の願いね。


(共栄橋の川。昔はみんなここで泳いでいました。)

― 自分の手で書き留めることが、照子さんの元気の秘訣ですね!照子さんの言葉からは、南畑という土地と、ここで紡いできた暮らしへの深い想いが伝わってきます。最後に、これから南畑に暮らす人たちへメッセージをお願いできますか?

南畑はどこもかしこも思い出だらけで、本当にあたたかい大好きな場所だから、時代が変わっても新しいお店が増えたり、若い人たちが移住してきてくれたりするのもすごく嬉しいことですよね。でもね、昔から続いてきた「お互い様」の気持ちや、人とのつながりだけは変わらずに残っていってほしいなと思いますね。寺倉のお金寄せも、不入道のお観音様のお祭りも、市ノ瀬の輪越し祭りも、ずっと続いてきたことには、それだけの意味がちゃんとあるの。その大切さに気づいてくれる人が南畑に来てくれたら、これからももっといい場所になっていくんじゃないかなと思いますね。

みんなで顔を合わせて声を掛け合うこと。その大切さを感じながら、この豊かな自然と一緒に南畑での暮らしを楽しんでもらえたら、これ以上うれしいことはないですね。


(テーブルの上には、丁寧に切り抜きが貼られたノートが几帳面に重ねられていました。)

麦茶とおせんべい、そして次々と思い出される昔話に耳を傾けているうちに、予定していた時間はあっという間に過ぎていました。照子さんが語ってくださった鮮やかな記憶を、頭の中で思い浮かべてみると、それぞれの時代でそこに生きた人々のぬくもりが伝わってくるお話ばかりでした。

昔は生きていくために、みんなで協力したり、支え合ったりすることが当たり前だったのかもしれません。時代が変わった今でも、南畑にいると人の優しさに触れる機会が多いと感じます。そんなところも、私が南畑を大好きな理由のひとつです。

「草の一本でも、自分の手で抜きながらこの家で暮らしたい」
そう語る照子さんのまっすぐな笑顔とピンと伸びた背筋には、南畑で生き抜いてきた誇りとぬくもりが宿っていました。私もおばあちゃんになったら、照子さんみたいになっていたいな。